認識

哲学よりも倫理(どう生きるべきか)に興味があった。
心理学には興味が無い。

ひさしぶりに、夢中に考えたことを核。

人間の目には視差があるので、対象物との距離感が解ると言われている。
正面のオブジェクトを中心線から左右に少しずれた所から斜めに見たときの二枚の画像のずれを認識していることになる。
従って、正面からまっすぐ単眼で見る画像とは少しく異なっているはずだ。

また、物体の大きさについて。

物体の大きさは変わらないのだが、遠くにあるものは小さく「見え」、近くの物は大きく「見える」。
これは自明の真理ではあるが、自明過ぎて、近くの物は大きくなるんじゃないか、とさえ思えることがある。

なぜ近くの物が大きく「見える」かと言うと、視界に占める割合が大きくなるからである。視界に占める割合と言うのは、例えば、眼球に写る部分の、より多くの面積を対象物が占めるということである。

写真などでは、対象物の大きさが実物と大きく乖離していることがあり、比較物がないと大きさが「感じられない」

この場合は、実際の視覚情報では十分ではなく、他の情報が必要になっている状況を表している。
つまり、「百聞は一見にしかず」の一見を満たすのに十分でない。

このごろ、いろいろな物理学の分野での成果で、認識や相対性ということが言われることがある。

例えば、観察をしているか、いないかで結果が変わるというものだ。

また、ここから書く事は、全く危うい話になるが、これは宗教的な概念だが、唯識論的には、意識しているときだけ世界が存在するというものに通ずるところがあると思う。

これは、時間と空間の再定義にも似ている。
昔の世界観では、時間が止まれば、すべてのものの運動などが静止するという、ある種静寂な宇宙観があった。

ところが、最近では、時間は一つの軸で、時間が止まるということは、大変なことなのだそうだ。つまり、縦横高さの軸の一つがおかしくなると言うことなので、宇宙がぺしゃんこになってもおかしくないような事態だということだ。

私は意識みたいなものが、そういう軸の一つになりうるのだと思っている。

また、時間は相対的なのだそうだ。また、動いているものの長さを正確に測る事はできない。

これは、非常に曖昧な定義ではあるが、「認識の主体」というものを言っているのと同じなんだと思う。

また、ついでに変な事をいうと、時間というものは、例えば、AとBと言う物があったとして、これは、
A が B かつ、 B が A になっているとき、それを確認する作業が時間なのかもしれないと思っている。
A が B と評価されうるが、それは必ずしも B が A ではないということである。それを確認するのには、かならず、物理的な意味で時間が、つまり、「間(ま)」が発生するのだ。

それでは、なぜ個々の事象が、判別可能な事象が発生するのだろうか。

それには対称性について述べなければならない。
もし、宇宙が完全に対称で静まっていれば、永久にそのままである。
ところが、ある種のトンネル効果で対称性が破れ、いろいろな事象が成立した。

それで今、我々は、「とりあえず、生きている。」という状態である。

一度何らかの対称が破られてしまえば、どんなものでも存在しうる。

これが、A が B でありうるが、 B が A とは必ずしも限らず、またその確認が必要な理由なのだと思う。

ただし、何故、そもそも対称性が破られたのか、また、そもそも対称性なるものがあったのか、については、残念ながら私には解らない。

ところで、宇宙の形について。
我々は、視界の所で述べたが、何かを見ているということは、何かに逆に認識されうるということでもあると思う。

つまり、2つの対象が、対称である必要があるのだと思う。
観察者と非観察者という分け方が普通なのだが、観察している以上、誰かから観察されていないということは、もはやできないのではないだろうか。

脱線したが、観察者を中心として、視線が八方に伸びているとしよう。
すると、実際には、あらゆるものは、相対だとすると、見ているもの以上に見る事ができことはないかもしれないし、何かを包み込んでいる大きな宇宙(ユニバース)というものは、必ずしも必要ではないのだと思えてくる。

つまり、まさに void 空でなのであって、基本的には、そういう概念が無いと色々と、論理的に考えることができないのではあるが、また一方で、そういうものすら「無い」という矛盾が生じてくる。