売買手法とか

売買手法を研究して行くと、商品、市場の個別的なものから経済や金融のあり方、社会・人間心理など、あらゆる事に手を伸ばしたくなってくる。
それぞれに、深く面白いからでもある。
だから、実際とかけ離れた学者バカというのが生まれてくる。
脳の命ずるままに、刺激や悦びを貪欲に求め、さらにその刺激そのものが再帰的に欲求になる。
これを渇愛という。
本来、水を飲めば乾きは癒されるように、欲求は満たされれば消える。
しかし、脳はそうはいかない。
生物本来の目的からかけ離れ、例えば、水を得る為の方法論を得ようとする。
これだと、飲みきれない程の水を得ることになるが、
ここで満たさそうとしているのは、明らかに体の乾きではなく、脳であると言える。

そうしていると、「方法論」自体も、渇愛の原因となりうる。
その対象が数学は数、つまり概念などに、物理学は、「物」や、世界そのものなどとまだつながりがあるからいいが、
もっと貪欲になると、そういった物を仮定していることからも離れたくなる。

つまり、「数」や「物」、そして世界とのつながりと言った物は、
一見客観的で、他人とも論じてどうこうできそうなので、
この「俺様」が研究するに値する対象となりそうなものだが、
しかし、このようなものは、何かを必ず仮定してるところが、嫌なのである。

つまり、「客観」とか「再現性」云々。
そこに現代の(?)科学(?)の限界がある。

また、演繹的に考えていくと全てが説明できる、というのは、傲慢不遜だと思う。
というか、間違い。
理論と実際がかけ離れると、そこに抽象的な意味での「空間」ができる。
それが肥大化していくと、その大きさ故に、無視できなくなる。
つまり、何かを解っているつもりでも、全てを説明できないのだ。
複雑な計算の上、コンピュータが「真」といえば、真とするしかないように。

結局、議論しても、「みんながそういっている」とか、「これはこうゆうことになっている」
ということになる。
だから、結局、宇宙は○○なんです、と言った所で、えらくもなんともない。

それで、そういったところで、やはりそれは「物」を合理的に説明できると、と考える、
一つの系に収まる。

それが他の系というか、それを絶対視して、そこに準拠した話をしなければ
ならないように強制するのは明らかなカン違い。

何か把握できないことを盲信する必要がどこかにあるということだ。
だから範囲の良く解らない議論を感情的にされても受けないことにしている。

という訳で、えーと、

相場において、テクニカル分析をするということが重要視されているが、
その理由としてよく言われるのが、ファンダメンタルズを解っているだけでは売買タイミングが解らない、
ということらしい。
分析することと、実際に取引して儲かるかどうかは、違うという意味においては、テクニカルも同じでしょう。

そこを勘違いしていると儲からないように思える。
でも、自分も儲けていないので、何も言えないのであるが...。

あまりにも、ポイントに粘着するとダメなような気がする。
ある支持線があったとして、まぁ、いろいろあって、結局サポートされたり、されなかったりする。

サポートされたから、上昇トレンドだったのだ、とすると、
その後急落したら、どう考えるのだろうか。

一旦は押し目で買いが入ったが、それが出尽くしたら急落し、損切りが出てさらに云々。
とさっきまで至極簡単だった物が、一気に複雑になる。

しかも、その原因が解らなかったり、だいぶ後になって考えられたりしているので、
単純に次の予想には使えないのだ。

だから、完璧でないのは当然として、分析の結果、どうなるか状況を予想し、
結局は何か行動しなければならないので、何かをシグナルとして、
どうする、ということになる。

まぁ知らね。わかんね、疲れた。