自己について。

世の中には頭の良い人というか、ある事を、普通の人なら潰れてしまうような深さで考え続けることのできる人がいる。
思想家や哲学者の多くはそういった人ではないかと思う。
もちろん、プロの哲学者や聖職者でなくても、そういう頭がおかしくなりそうなこと、を考え続ける人がいると思う。

たとえば、自己についてである。
自己というと、「我を張る」などといって、とかく日本ではあまり良い言葉に思えないが、
英語圏でエゴというと、悪い意味の言葉にも当然なりうるが、
「彼のエゴが好きなんだ」という言い方もでき、それは、
(彼は女好きなのだが、一生懸命尽くしては、捨てられるといった、)彼の性格の一面が好きだ、
といった意味になることもある。

ところで、仏教では無我である、ということを教えているし、もっとさかのぼって、「ウパニシャッド(奥義書)」では、
「汝はそれである。」
と言っている。

インドの哲学は、サンスクリットや、仏教やジャイナ教ならパーリ語で残されている事が多いが、
言語学的にはヨーロッパの言語に属していて、それに応じた解釈がある程度可能である。

ここでは「それ」を、日本語の代名詞に直訳しても、何の意味もないが、
文法的に、第三者を指すものと、第二人称、つまりあなたが同じと教えているのである。

ホラ貝を耳にあてれば、ボーッとした海のような音が聞こえる。

目蓋を閉じれば、網膜の裏に、いろいろな色の斑点が見える。

お前は、「それ」である。

と、言っている。

これは絶対的な他者、つまり、世界や神、自然といったもの、認識し、考慮し、確信し、感じされる、
様々な対象が、己自身である、と言い切っていて、実に面白い。

仏教の場合は、もっと合理的?科学的?に、五蘊が一定でないならば、何故、己が存在すると言えるのか?
と、かなり具体的に問いかけている。
こういう事が、「自己」です、と定義して、その本質を探ろうとすると、必ず行き詰まることを言っているのだ。

当時になかった考え方で、脳のシナプスの信号云々と言ってみた所で、状況は何も変わっていない。



つまり、自分というのは、自分がいると思っていること、で、それ自体矛盾していると言っている。

なぜならば、考える主体というのがあって、それが主張していることをそのまま受け入れることを意味しており、
それを検証するすべがない。といっている。

究極的には、xは存在するのか?と考えて、いくら論じても、
「結局、そんなこと検証しようがない」となる。

そこで、ある範囲で、我慢して、「○○自己」などと言っているが、これは何の解決にもなっていないと思う。

文章にしてみたが、恐らく、表面的なことしか書けない。

実は、私がこの感じを持つようになったのは、最近のことである。

驚いた事に、私の考えたことをアインシュタインも考えていた。

ざっくりいうと、「世界を知る事ができるという不思議」である。

最初は、何を言っているのか解らなかったのだが、今は了解した。


これは、無我であるということを、表面的にでも了解しないと進めないステップである。

意外にもアメリカでよく売れている書物が「老荘思想」だったりするので、
もしかしたら、彼もどこかで仏教やインド思想に触れていたのかもしれない。

と言っても、実際問題として、「悟る」とか、いうことと、「学問的研究」は異なっており、
彼は後者の道を進んだのだが、前者への敬意を忘れる事がなかったと言えるし、
そこが偉大なのではないだろうか。

私もこういったことをぐちゃぐちゃと書くのが好きが人間であるが、
到底、真面目に取り組んでいないで、ただ、妄想を楽しんでいるだけなのである。